版画 画家
- 西洋の主要な画家・版画家 ハンス・ホルバイン
- 西洋の主要な画家・版画家 ジャック・カロ
- 西洋の主要な画家・版画家 ピラネージ
- 西洋の主要な画家・版画家 ゴヤ
- 西洋の主要な画家・版画家 アルブレヒト・デューラー
- 西洋の主要な画家・版画家 マックス・クリンガー
- レンブラント 銅版画を芸術表現にまで高めた偉大な画家
- イタリアルネサンスの主要な画家・版画家 マンテーニャ
- 西洋の主要な画家・版画家 ショーンガウワー
- 西洋の主要な画家・版画家 ドーミエ
- 西洋の主要な画家・版画家 ジャポニズムを広めたブラックモン
- 西洋の主要な画家・版画家 ルドン
- 西洋の主要な画家・版画家 異端の芸術家ロップス
- 西洋の主要な画家・版画家 アンソール
- 西洋の主要な画家・版画家 キュービズムを代表する画家ジョルジュ・ブラック
- 西洋の主要な画家・版画家 マリー・ローランサン
西洋の主要な画家・版画家 ハンス・ホルバイン
ハンス・ホルバイン(Hans Holbein 1497もしくは98 - 1543)は、ルネサンス期のドイツ人画家。
南ドイツのアウグスブルクに生まれ、後にイギリスで活動しました。
世界的に活躍した肖像画家として著名であり、同時に木版画シリーズ「死の舞踏」の作者として、版画史上においても重要な画家です。
当初は父(同じく画家)の元で絵の研鑽を重ねますが、10代のうちにスイスに渡り、版画の下絵の仕事をしたり、室内装飾を手がけたりと、流浪の青年期を送ります。
その後、1526年にロンドンに渡るまでの間、富裕層をパトロンに持ち、宗教画や肖像画を多く手がけます。
1536年にはイギリス国王ヘンリー8世の宮廷画家となりますが、1543年、ペストが原因でロンドンで客死します。
死の舞踏は、死の恐怖を前に人々が半狂乱になって踊り続けるという14世紀のフランス詩が起源とされています。
身分や貧富の差に関らず死は訪れ、全ての人は無に帰す、という死生観を表したもの。
多くの芸術家が死の舞踏をテーマに絵画や彫刻などを制作しました。
ホルバインの版画による死の舞踏の画面は、骸骨が踊り狂いグロテスクかつ滑稽な、異様な様態を見せ付けます。
このホルバインの「死の舞踏」シリーズは好評を博し何度も重版されたのだそうです。
西洋の主要な画家・版画家 ジャック・カロ
ジャック・カロ (Jacques Callot 1592-1635) はロレーヌ公国(現在のフランス東北部)の首都ナンシー生まれのフランスの大版画家。
精力的に制作活動を行い、生涯を通じて1400点以上の版画を手がけ「フランス版画の父」とも「天才肌の銅版画家」とも呼ばれます。
カロのエッチング技法はビュラン彫りと判別し難いほど優れたもので、宮廷の祝典を始め、風俗画や宗教的モチーフの傑作を生み出しています。
カロの代表作「戦場の惨禍」は現実に戦場を見たカロ自身の体験を荒々しいタッチで銅版画で表現したもので、その客観的な歴史観はもちろんのこと画面が問う社会批判は高く評価され、カロの画家としての名声を高めています。
ヨーロッパ諸国が流血の巷と化した最大の宗教紛争が、俗に言われる三十年戦争(1618-48)です。
戦場と化したのはドイツですが、オーストリア及びスペインの両ハプスブルグ家とフランスのブルボン家の対立は、オランダの独立戦争をも捲き込み肥大し、スウェーデンの政治的野心や反皇帝派ドイツ諸侯の抗争にも拍車をかけることになりました。
ヨーロッパ全土を政治闘争の坩禍に変えたこの惨事は、一世代にも渡って続きました。
カロは同時代人として、時代の証言者とならざるをえなかったのでしょう。
西洋の主要な画家・版画家 ピラネージ
ジョヴァンニ・バティスタ・ピラネージ(Giovanni Battista Piranesi 1720 - 1778)は18世紀のイタリアの画家、建築家で、18世紀イタリアロマン派を代表する版画家でもあり、ローマの景観を描いた版画でもその名を知られます。
ベネチアで生まれ建築を学び、のちにローマに渡り、ローマ教皇の支援のもと古代遺跡の研究を始めます。
同時に版画の技法を学び、ローマの古代遺跡や都市の景観を版画で表現し、「ローマの古代遺跡」や「ローマの景観」などを刊行します。
ピラネージは大版の版画シリーズを精力的に制作しました。
銅版画のなかに数多くのローマの風景を記録し古代ローマ時代の都市や建築を蘇らせ、それらの作品は当時ヨーロッパ中に知れ渡り、ローマを訪れたことのない人々にローマの様式を伝えました。
実際の建築よりもピラネージが描いた版画はローマを訪れた旅行者によってヨーロッパ中に広まり、18世紀の人々の古代ローマやギリシャに対する見方を根底から覆したのです。
ピラネージは国家最高の建築家として頂点を極め、ローマ芸術界の殿堂に名を連ねてきた芸術家でしたが、意外にもピラネージが手がけた建築計画で実現した建物は殆ど無く「空想の建築家」とも「風景を描く銅版画家」とも呼ばれていました。
西洋の主要な画家・版画家 ゴヤ
フランシスコ・デ・ゴヤ (Francisco de Goya 1746-1828) はスペインを代表する画家・版画家。
スペインが生んだ近代絵画の巨匠であり「近代絵画の父」と称されます。
1786年、40歳の時に国王カルロス3世付きの画家となり、1789年には新王カルロス4世の宮廷画家となりますが、1824年、当時のスペインの自由主義者弾圧を避けるためフランスに亡命します。
1828年、亡命先のボルドーで82年の波乱に満ちた生涯を閉じました。
ゴヤは絵画はもとより、版画の分野においても類まれなる才能を見せています。
ゴヤの版画作品には、ゴヤの生きた時代の風刺、体制批判などのスピリットが盛り込まれ、ほかにも幻想的な表現も試みられており、ゴヤの象徴主義、シュルレアリスムといった19世紀から20世紀にかけての芸術運動にも大きな影響を与えています。
こうした傾向が最も顕著に現れているのが銅版画作品です。
中でも 「気まぐれ」「戦争の惨禍」「妄」「闘牛技 の4つの版画集は、四大連作版画集として高い評価を得ています。
これらはまた、版画の技法においても革命的な試みがされており、ゴヤが銅版画家としても優れた技量を持っていたことを証明しています。
西洋の主要な画家・版画家 アルブレヒト・デューラー
ドイツ人画家として最高位に君臨するドイツ・ルネサンスの偉大なる巨人、アルブレヒト・デューラー (Albrecht Durer 1471-1528)。
北方ルネサンスの巨匠と称されるデューラーは、金工師を父に、ドイツのニュルンベルクに生まれます。
生涯を通じて、およそ100点の銅版画と300点の木版画を制作し、版画を生業とした最初の画家といわれています。
デューラーは当初、父のもとで金銀細工師を目指し腕を磨きますが、後に画家を志し、ニュルンベルクに工房を構えていた画家・挿絵画家であるミヒャエル・ヴォルゲムートに師事し、ゴシック様式を学びます。
そして、1494年~1495年にかけてイタリアのベネチアへ赴き、ルネサンス美術を研究。
1498年に木版画集「黙示録」で成功をおさめ、同時に、銅版画による作品作りにも積極的に取り組むようになります。
人体の比例や遠近法の研究に取り組み、1513年には「騎士と死と悪魔」などの銅版画を発表。
多くの版画を手がけ、その優れた観察眼から緻密な作品を制作、大画家としての地位を不動のものとし、「北方ルネサンスの巨匠」の異名を取るまでになりました。
西洋の主要な画家・版画家 マックス・クリンガー
マックス・クリンガー(Max Klinger 1857-1920)は、画家・銅版画家・彫刻家で、ドイツの代表的な芸術家のひとりです。
20世紀の転換期を代表する人物と称されます。
1857年ライプツィヒに生まれ、17歳で画家、カール・グッソーに師事、翌年にはベルリン・アカデミーに入学します。
1892年ミュンヘンにおいてシュトゥックの「分離派」旗揚げに呼応して「ベルリン分離派」を結成。
クリンガーの作品は常に賞賛を浴びました。
絵画作品として「キリストの磔刑」「オリュンポスのキリスト」「パリスの審判」といった代表作を残しています。
また彫刻では、1902年のウィーン分離派展に展示された「ベートーヴェン像」が広く知られています。
しかし、クリンガーの芸術家としての評価を高めてきたのは、絵画や彫刻の作品よりも、むしろ版画作品でした。
クリンガーは、生涯を通じておよそ450点の版画作品を制作していますが、
なかでも連作として制作された14作は、生・死・愛などクリンガーが執着したテーマが繰り返し描かれており、
クリンガーの代表的な版画作品とされています。
特に、奇抜な発想を動的な画面で現した銅版画はマックス・エルンストなどシュルレアリスム画家に大きな影響を与え、
シュルレアリスムの元祖とも言われています。
レンブラント 銅版画を芸術表現にまで高めた偉大な画家
レンブラント・ハルメンスゾーン・ファン・レイン(Rembrandt Harmenszoon van Rijn, 1606-1669)は、
17世紀を代表するオランダの画家で、バロック芸術を代表する芸術家の一人。
油彩だけでなく、エッチングや複合技法による銅版画や素描画家としても知られています。
レンブラントはオランダのライデン郊外に生まれ、画家を志してアムステルダムで修業した後、
再びライデンに帰郷しアトリエを開きます。
後世の画家たちに強烈な影響を与えた独特の明暗法を生み出し、「光の画家」とも呼ばれています。
17世紀ヨーロッパ画壇の寵児として活躍したレンブラントは、油彩画のみならず、人間描写に優れた数多くの銅版画を残しました。
当時のオランダはヨーロッパの流通経済の要であり、大量の紙を消費する出版業の中心地。
数多くの版元と版画摺り職人に恵まれたオランダは、レンブラントの版画への積極的な取り組みを容易にしたのです。
版画表現の未知なる可能性に魅せられたレンブラントは、その大半の創作活動をエッチングに捧げ、
独自の版画芸術の世界を確立します。
レンブラントは、世界の美術史上で初めて銅版画を芸術表現の手段へと進化させ、
芸術としての銅版画を不動のものとした最大の貢献者なのです。
イタリアルネサンスの主要な画家・版画家 マンテーニャ
アンドレア・マンテーニャ (Andrea Mantegna 1431-1506) は、
イタリアルネサンス期のパドヴァ派を代表する大画家で、銅版画家でもあります。
(ゴシック期、ルネサンス期のイタリアの絵画は、都市ごとに独自の発達をとげ、シエナ派、
ヴェネツィア派、パドヴァ派など都市の名を冠して分類されます。)
マンテーニャの絵画様式は古典的なモチーフを類まれな想像力と遠近法を用い、
まるで劇中を思わせるようなリアリティを帯び、極めて高度な独自性を示しています。
義弟関係にあったヴェネツィア派を確立した巨匠ジョヴァンニ・ベッリーニや、
ドイツ美術史上最大の画家・版画家アルブレヒト・デューラーなど後世の画家に多大な影響を与えました。
現存する作品は55点(工房作や帰属作を含めると約85点)を数え、いずれもマンテーニャ独自の技法と世界観を示しており、
北イタリアの芸術全体へ強い影響を与えました。
版画作品として「シレノスのいるバッコスの祭り」「 大樽のあるバッコスの祭り」「トリトンとの闘争」など。
西洋の主要な画家・版画家 ショーンガウワー
マルチン・ショーンガウワー(Martin Schongauer 1453-1499)、この著名な画家は、フランス東部コルマールの生まれ。
版画家としての評判とは別に、当時の最高の画家の一人と称されました。
ショーンガウワーは、ラファエロの師匠である、
ピエトロ・ペルジーノ(ルネサンス期のイタリアの画家)と親しく文通をしていたそうです。
また、かの偉大なる画家・彫刻家のミケランジェロも若い頃に
「聖アントニウスが空中にて悪魔に苦しめられる図」の版画に夢中になり、丁寧に色つきで模写したのだとか。
ショーンガウワーの版画は総数120点に及び、類まれな独創性を示しています。
またデザイナーとしても卓越しており、聖書の登場人物を描いてもきわめて表情が豊かで、
ショーンガウワーの描く聖母や聖女、天使たちは優雅な身のこなしと純粋さを湛え、見る者を魅了します。
版画作品に「幼い救世主を膝に乗せる聖母像」「荷物を積んだロバを追う農夫とロバの仔」
「葉飾り、および小鳥を貪る梟の図」など多数。
西洋の主要な画家・版画家 ドーミエ
オノレ・ドーミエ(Honore-Victorin Daumier 1808-1879)は、19世紀のフランスの画家・版画家で、
写実主義を代表する芸術家の一人です。
風刺版画家として知られるとともに、油彩画家としてもロートレック、ゴッホをはじめ、多くの画家に影響を与えました。
19世紀前半のフランスはジャーナリズムの勃興期にあり、新聞・雑誌などが多数創刊されましたが、
識字率がそれほど高くなかった当時、挿絵入り新聞の需要は大きく、この頃、
挿絵入り風刺新聞「ラ・カリカチュール」や「ル・シャリヴァリ」を創刊したシャルル・フィリポンという人物が、
ドーミエの版画家としての才能を見抜き、1831年、23歳のドーミエを採用します。
当時のフランスは7月革命(1830年)で即位した国王ルイ・フィリップの治世下にありましたが、
ドーミエは国王や政治家を風刺した版画で一世を風靡します。
この頃の作品としては、版画「トランスノナン街」が有名です。
ドーミエは、生涯に4,000点近い版画を残したほか、数十点の彫刻、三百数十点の油絵を残しています。
ドーミエの油絵は生前にはほとんど公開されませんでしたが、印象派や表現主義の絵画を先取りした作品として、
今日では高く評価されています。
西洋の主要な画家・版画家 ジャポニズムを広めたブラックモン
フェリックス・ブラックモン (1833-1914) は、フランスの画家・版画家で、
日本美術(ジャポニズム)の影響を受けた最初の西欧の芸術家とされています。
1852年、磁器メーカー「アヴィランド」に当時フランス随一の銅版画家として名高かったブラックモンが美術部長として迎えられます。
ディナーセットやティーカップなどのデザインにジャポニズムの影響が現れていて、
これらは北斎の絵本類から着想を得たものとされています。
(フランス・パリで1856年頃にブラックモンが自身の店で磁器の梱包に使われた「北斎漫画」のコピーを目にしたのだそうです。)
ブラックモンはジャングラ-ル協会という日本美術の研究を唱導する芸術家、
批評家の集団の創立メンバーとして1860年代半ば頃、毎月会合を開きフィリップ・ビュルティ、
アンリ・ファンタン・ラトゥ-ルらと日本美術について語り合います。
多くの画家や版画家との交友を通して日本美術の喧伝に努め、テオド-ル・ルソー、
オーギュスト・ルペール、アルベール・ベナールら多くの画家にエッチングを教えました。
版画作品として「あるムガール人の夢」「狼と猫」「不和の女神」など。
西洋の主要な画家・版画家 ルドン
オディロン・ルドン(Odilon Redon 1840-1916)は、19世紀~20世紀のフランスの画家・版画家。
1840年、ボルドーに生まれ、1864年パリに出てジャン=レオン・ジェロームに入門しますが、数か月でボルドーに戻り、
銅版画家ロドルフ・ブレダンの指導を受けます。
また、1878年頃にアンリ・ファンタン=ラトゥールから石版画(リトグラフ)の技法を学びます。
1870年に普仏戦争に従軍、その後1872年からパリに定住し、1879年、初の版画集「夢の中で」を刊行します。
ルドンは印象派の画家たちと同世代ですが、その作風やテーマは大いに異なっています。
光の効果を追求し、都会生活のひとコマやフランスの月並みな風景を主な画題とした印象派の画家たちに対し、
ルドンはもっぱら幻想の世界を好んで描き続けました。
象徴派の文学者らと交友をもち、象徴主義に分類されることもありますが、19世紀後半~20世紀初頭という、
西洋絵画の歴史のもっとも大きな転換点にあって、独自の道を歩んだ孤高の画家と称するに相応しいでしょう。
主な作品に「キュクロプス」「子供の顔をした花」「青い花瓶のアネモネとリラ」「ペガサス」「オルフェウス」など、
夢幻世界を鮮やかな色彩で描いた作品が多く見られます。
西洋の主要な画家・版画家 異端の芸術家ロップス
フェリシアン・ロップス( Felicien Rops 1833-1898)は、ベルギーの画家・版画家。
娼婦や悪魔、エロスなどの官能的かつ悪魔的な作品で、常にスキャンダラスな話題の的となっていました。
ロップスは、ベルギー南部・ナミュール出身。
ブリュッセル大学の法学部で学びつつ、聖ルカ美術研究所に通います。
1856年「オレインスピーヘル」という風刺新聞を発刊、1862年パリへ渡り、銅版画技法を用いて多くの本の挿絵を担当します。
1868年にブリュッセル美術自由協会の副会長に就任し、1870年には国際エッチング作家協会を創設。
1886年「20人会」(レ・ヴァン)に参加、風景画家・版画家・挿絵画家として活躍しましたが、
悪魔的でエロティックな題材では特にその才能を開花させました。
その濃厚なエロティック、グロテスク表現は、まさに世紀末の頽廃美そのものと言えるでしょう。
主な作品に「毛皮の上に座る女」「骸骨を見る女とジャックマールの門番」「スフィンクス」など。
西洋の主要な画家・版画家 アンソール
ジェームズ・アンソール(James Ensor 1860-1949)は、19世紀~20世紀のベルギーの画家、版画家。
20世紀の画期的な芸術運動である、表現主義とシュルレアリスムの先駆者として、
高く評価されている近代ベルギーを代表する画家の一人です。
23歳の時に革新的な芸術を目指す「レ・ヴァン」(20人会)の創設にも参加しています。
アンソールの初期の作品には印象派の影響を受けた穏やかで暗い色調の室内画や風景画が多く見られますが、
1887年頃より、画面は一転して明るくなり、骸骨、悪霊、救世主、仮面が主題として描かれるようになります。
現実の醜悪な姿を暴き出すアンソールの作品は、その過激さゆえ、サロンはもとより、レ・ヴァンからも出品を拒否されました。
アンソールは26歳から版画の制作を始め、1904年までの間に銅版画が集中的に制作されました。
版画は、アンソールを魅了してやまなかった光を最も効果的に表現できる技法でした。
グロテスクでユーモアのある幻想的な表現で、生と死、人間性の寓話を描いたアンソール。
1929年には芸術に貢献したとしてベルギー国王より「男爵」の称号を与えられ、その89歳の生涯をオステンドで閉じました。
西洋の主要な画家・版画家 キュービズムを代表する画家ジョルジュ・ブラック
ジョルジュ・ブラック(Georges Braque 1882-1963)は、フランスの画家、版画家。
パブロ・ピカソと共にキュービズムを代表する画家として知られます。
22歳のときパリに出て美術学校に通ったブラックは、初期の頃はアンリ・マティスの影響を受け、
フォーヴィズム(野獣派)の作品を制作していましたが、1907年、ピカソの「アヴィニオンの女達」を見たことで衝撃を受け、
それ以降ブラックは、ピカソと共にキュービズムを発展させていきます。
(キュービズムの美術の分野における影響は大きく、絵画だけにとどまらず、彫刻・デザイン・建築・写真に至るまで、
その影響は及んでいます。)
キュービズム時代はピカソと非常に良く似た画風の作品を発表していましたが、次第に独自の道を歩み始め、
リトグラフ(石版画)や銅版画などの技法を身に付け、「鳥」「鳥と星」「鳥のカップル」など、
鳥をモチーフにした版画を多数制作しました。
晩年は静物画、室内画を中心に装飾性と単純化を究め、平明で抑制された作風に変化して行きました。
西洋の主要な画家・版画家 マリー・ローランサン
マリー・ローランサン(Marie Laurencin 1883-1956)は、20世紀前半に活動したフランスの女性画家・版画家・彫刻家。
リトグラフ(石版画)や銅版画で描かれた少女や貴婦人、柔らかなパステル調の作品で有名です。
マリーは夢見がちな少女時代ののちに画家を志すようになり、当時の先進的な芸術家グループの一員となります。
マリー達の溜まり場だったアトリエ兼用の古いアパート、通称「洗濯船」で、巨匠パブロ・ピカソや美術評論家のアポリネールらと青春時代を送るうちに、「淡い色調と簡潔なフォルムによる憂いをたたえた詩的な女性像」という独自の画風を確立。
30歳になるころには有望な新進画家として世に知られ、当時、
パリに各国から集って「エコール・ド・パリ」と呼ばれた多くの芸術家たちの中でも、重要な一角を担うようになります。
ところが、31歳の結婚直後に始まった第一次世界大戦のため、その後7年間に及ぶ亡命生活を強いられます。
その後、再び戦争に向かう前のつかの間の平和のひととき、パリに戻ったマリーは、パステルカラーの簡潔で華やかな、夢見るような少女像という独特の画風を作り上げ、フランス史上狂乱の時代(Les Annees Folles)と称された1920年代にあって、時代を体現した売れっ子画家となりました。

